「加害者」という固定観念を越えてー考える力の欠如がもたらす悲劇の連鎖を止めたい

土曜の夜は上の娘が習い事で不在。

うちに残る下の娘と、最近志村どうぶつ園を見るようになりました。普段の生活では見ることのない色々な動物と人の関わりを知ってほしいと思ってのことです。興味をもってくれることはまだまだ多くはないですが。

今日はカモの親子のお引越しに密着していました。

生まれた池から200メートルほど離れた川まで、生後数日の小さなヒナがお母さんカモの後にくっついて列になって歩いていく様はとても愛らしい。近所の住民も一緒になって、車や障害物をよけられるようにサポートしています。

野生動物なのにこんなに人間が手を出していいのかな?と思っていましたが、川までたどり着いてからは一切手出しせずに見守るスタンスだったようです。

娘も珍しく集中してじっと成り行きを見守っていました。お母さんの後をついていくヒナに自分を重ねて見ていたようです。小ガモが6匹全員池から川にたどり着いたときは、「みんなそろっていけてよかったね!」とニコニコ。

ですがその後の展開は厳しいものになりました。よそのカモの縄張りを避けて川を下っていく際に、人工ブロックにひっかかったヒナや弱ったヒナが、カラスや野良猫に捕食されてしまうのです。

ひゅっと飛んできたカラスがヒナをくわえていく際には「ああっ!たべられちゃった!」と悲痛な声を上げていました。まるで娘自身がさらわれたかのように。

ようやく合流できたカモ親子を野良猫が襲撃するシーンでも、「ああっ!」と声を上げ泣きそうです。でも、「くろねこだね…なつめ(うちで飼っている黒猫)みたいだね」「ねこはとりさんすきだもんね…」などとつぶやいていました。

番組はあくまでカモ目線で進行しています。その中で加害者的に登場した野良猫にも、娘がちゃんと視点を移動させて鑑賞できたことには驚きました。

もしかしたら、あのカラスや野良猫だって空腹でようやくとれた獲物だったのかもしれない。お母さんで、帰りを待つ子どもがいたのかもしれない。そう考えれば、カラスも猫も加害者とはいいきれないんですよね。

バーサは小学生だったころ「わくわく動物ランド」などの動物番組が大好きでしたが、弱って死んでしまう子供などを見て「なんで撮ってる人は助けてあげないの!?ひどい!」などと思っていたものです。

自分の見ている世界が全てだと感じて、それ以外の視点を持てなかったあの頃。多層的な世界の形が、私には見えていなかった。

いろんな視点を持ち多角的に物事を見ることは、考える力を深める第一歩です。娘は3歳にしてみごと第一歩を踏み出したのだな、と嬉しく思いました。

目黒区の5歳の女の子が両親に虐待されて亡くなるという痛ましい事件が連日報道されています。なぜ罪もない幼い子供が死ななければならなかったのか、なぜ両親は自分の子供が亡くなるほどのひどい扱いをしたのか、わからないことだらけです。頼るべき大人に尊厳をふみにじられ、儚く短い生涯を終えた子供の気持ちを思うと…もう想像しただけで胸がつぶれそうになる、本当に本当に残念すぎる事件です。

世間でも、かわいそうな幼い命を惜しみ悲しむ声であふれています。それとともに非道な行いをした両親に対する怒りや憤りの声も渦巻いています。死刑にすべき、などの過激な表現も見受けられます。

感情的には全く同感。共感します。

でも、やっぱりそれは違うんじゃないかな。

なぜこんなことが起こったのか、詳しい事情を私は知りません。たとえ容疑者である両親の供述や警察の捜査で事実が明らかになっても、なぜこんなことが起こったのか、の説明には足りない。だって多分、本人たちだってなぜそんなことをしてしまっているのかわからないままだったはずだから。

わからなければ考えればよかったのに。今後はどうすればそうならずに済むかを考えて、一つずつ行動してみればよかったのに。それをしなかったからこそ、誰も考え付かないような悲劇は起こったのではないでしょうか。

何かトラブルが起こった時、なぜか全く思い通りに物事が進まない時、考える力がなかったり考える方法すらわからなかったりすれば、その状態から抜け出すのは困難です。たまるストレスからも逃れられなくなり、てっとり早く現実逃避できる方法に逃げてしまうことも容易に想像できます。考える力の欠如は、人生における致命的なリスクだとバーサは思います。

「考える」と簡単にいいましたが、実は自分で自分のことを深く考えるのって、多くの人が想像している以上に難しいことです。いえ、むしろ人生の中の最難題といってもいいとさえ思います。それなのに考える力をのばすような教育は、ここ日本ではほとんど行われていないのが実情です。

これでは「悪いことをした人を罰する」だけで状況が改善するはずがないのは想像に難くないことです。悪いことをしてしまう人は生まれつき悪い人だからではなく、悪いと言われることがわからなかった、またはそれ以外に自分の置かれた状況を改善する方法が考え付かなかったという可能性も考えてあげてほしいのです。

当然「わからなかった」と言っても免罪符にはなりません。失われた命や、危害を加えられた他者から見れば許しがたいものでしょう。

それでも、感情にまかせて罪を犯した個人を糾弾したところで、社会全体が抱えるリスクは小さくなったりしません。そこをはき違えてはいけないと言っているのです。

本当にやるべきことは、加害者になってしまう前に、視点を変えて他者に危害を与えずに自分の望むことを達成する方法を考える力を養うこと。そしてそれを支援する体制作りです。

今の学校教育は、いかに与えられた課題をすばやく正確に処理するか、に偏向しています。社会に出れば、自分で課題を考え自分で答えを見つけることが求められるにもかかわらず、です。こんなAIにでも任せられる処理を身につけるために、多大な時間の浪費を強いる義務教育には本当に辟易します。

学校教育で受け身の処理方法ばかりに特化してしまった人、考えるという概念すらわからなくなっている人向けに、多角的に考えることを訓練する場が必要になっていると痛切に感じます。

そもそも今の虐待防止対策だって、個別に問題のある家庭をピックアップして行われていますが、普通に見える家庭の中にだって問題の種は存在します。不運が重なってしまえば、その芽がでてこないとも限らないのです。もっと抜本的な対策をとる必要があるのに潜在的な危険に対して無策というのは、お役所の考える力さえ疑わしく思ってしまいます。

5月におきた新潟五頭連峰での親子遭難事故の際も、軽装で無計画に山に入った親御さんを非難する声がありました。でもそれも、「考え付かなかった」諸々の事象が不運にも重なっておきた悲劇のように感じます。後から聞けば「どうして考え付かなかったの?」ということが目につきますが、当人は何がいけなかったか、何をすべきなのか、最後までわからないままだったのではないでしょうか。最悪の自体が回避できなかったこと、悔やまれてなりません。

子供が絡む問題にはどうしても感情に流されがちなバーサですが、遠くで悲しがったり悔しがったりしたところで、亡くなった子供たちはかえってきません。目先の満足感だけで「加害者」を糾弾しても、これから新たにおこるであろう悲劇を防ぐことはできません。

助けが必要なある種の「被害者」が、「加害者」になってしまう前に。思考停止になって、現実が見えなくなってしまう前に。考え続け、行動し続ける技術をもっと普及できないものか、今日も考え続けているバーサです。

スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク