哲学という生き方

Eテレをつけていたら、「知恵の泉」で間宮林蔵の樺太探索について特集していました。

前人未到の秘境だった樺太で、現地に住むアイヌの人々の知恵をかりて、アイヌの人々と同じような生活をしながら冒険をすすめたという…

じつは私、アイヌ民族の話が大好きです。アイヌの人々は昔から、自然とともに暮らす中でそれぞれの生き物の中に「神(カムイ)」をみます。この考え方が好きだし、しっくりくるんです。

日本人も古来より、万物の中に神をみる「八百万神信仰」をもっていたと言われています。虫にも動物にも、植物にも、あるいは石などの無生物にさえも、内に神がおわすと考えるのです。アイヌの場合、火も大事な神様みたいですね。まさに神様だらけの国、日本!

私は無宗教ですから、神というものがどういう存在なのか定義できません。ですが、この世界に存在する万物に尊敬の念を持っていますので、それらに「神」の名をつけて敬ったアイヌの考え方にも共感しやすいのかもしれません。

全ての命は無から生まれ、有限の生をうけて、また無へ還っていきます。ですが、無と思われるのは個からみた概念でしかなく、実際は無に帰ったはずの命が形をかえてまた有の存在になっています。

コンポストなども、死んで無になった生ごみが、他の生き物たち力を借りて微細化され、また別の生命の一部になったりして有の存在になる過程です。「この世界は有と無が隣り合わせで混ざり合った空である」とは、仏教の開祖ブッダの思想ですね。

この世界にムダなものも無意味な存在もなく、全ては自分と同じルーツを持つ世界の一部です。嫌いなものも、なければよいと思うものだって、自分の主観をはずせば皆仲間なんです。ブッダもアイヌも、異口同音にこの事実に触れているところに共感します。

だからといって、私は仏教徒ではありません。もちろんアイヌでもない。完全に同じ考えかといわれると、そうでもない。

宗教ではそれぞれの教義を広め、それを信じることで救われることを説くもの。でも、私はたとえ間違っていようが自分で感じたことや考えたことの方を信用します。いろいろな人の意見も取り入れながら、自分が納得いくように世界の形を探究していたいと常々思っています。

死んだあとのことは誰もわからない。だから皆死ぬのがこわいし不安です。もちろん私だってこわい。でも、昔から伝わっていようが、高名な誰かが言っていようが、宗教で教えられた物語が真実だと、どうして言えるでしょう?

学校で教わったことも、教科書に書いてあることも、偉い宗教家が言っていることも、ただのいち情報で仮説でしかありません。それが真実である保証はどこにもないのです。

与えられた物語に共感することは人間の本能です。それで落ち着くのなら物語に存在価値があるということ。私も物語に多く人生を救われていると感じます。それでも、自分だけの物語の語り手であることだけは、放棄してはいけないと思うのです。

物語が混ざり合ってまた新しい物語が生まれるように、人の考えも混ざり合って練り上げられ、まだ見ぬ領域に広がっていく過程が楽しみです。

もっともっとたくさんの考えを知りたい。そして自分でも考えてみたい。生きている限り考え続けることをやめられない、生き方そのものを哲学と呼ぶのだと思います。

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